2017年4月4日(火曜)
コース:
JR 北九州門司駅(5:51)~ 山口駅(7:44)
徒歩 山口駅(7:50)~ 萩城跡(18:00)~ 玉江駅(18:45)
JR 玉江駅(19:07)~ 北九州門司駅(22:08) |
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北九州より始発電車で山口駅へ(1)
萩往還は、長門国(ながとのくに)萩から、周防国(すおうのくに)三田尻(防府)までの街道で、江戸時代に整備されたそうだ。。
今日は、中間の山口市から萩市まで歩くことにした。
朝山口駅へ到着し、外へ出ると、さわやかな風がほほを包み込んだ。
平日とあって通勤通学の人が慌ただしく通りすぎて行く。
少し申し訳ない気持ちで、萩を目指して歩き出す。
市内を進むと萩往還の看板が目につく。
しばらく進んで行くと、瑠璃光寺の高い五重塔が見えた。
瑠璃光寺に入ると、人はほとんどいない。
五重塔の右手を進み一ノ坂ダムへ続く街道に出る。
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山口市内を望む(2)
一ノ坂ダムからは、今歩いてきた方角に山口市内が見える。
ダム湖畔では桜の蕾が薄紅色に色づき、今にも花咲こうとしていた。
ウグイスの声があちこちから聞こえ、春の調べを告げている。
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いよいよ山道へ(3)
ダムを過ぎた先に萩往還の看板があった。
ここから本格的な山道となる。
この山の向こう側に萩がある。
『長い道のり、あせらずゆっくり歩こう・・』という気持ちと裏腹に、早足になっている。
全長35kmの距離と最終電車の時間が、無意識に気を急かす。 |
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待望の石畳を歩く(4)
そもそも、萩往還を歩いてみたいと思ったきっかけがこの石畳だ。
萩往還は、毛利氏が参勤交代の道として街道を整備したことに始まる。
数百年前から多くの人が利用し、維新で名を馳せた人達も歩いたであろうこの石畳を一度歩いてみたかった。
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村人発見(5)
しばらく歩くと、国道を横切る場所に出た。
そこで、孫と思われる子どもと犬を連れたおじいさんに出会った。
「竹の子採りですか?」、と尋ねると「まだ早かごつぁる。・・店にも出とらんもんね。」と言いいながら停めてあった軽トラックに乗り、車を走らせて行った。 |
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六軒茶屋跡に到着(6)
さらに山道を歩いて行くと、一番の難所とされた一の坂に着いた。
そこに六軒茶屋という建物があった。
名前の通り、当時、六軒の茶屋があったらしい。
当時、行き交う人達が、疲れをいやし、くつろぎ、話し、笑い、いろんな情景が目に浮かぶ。
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木造の溝に当時の面影(7)
六軒茶屋からさらに坂を登り、一里塚や一貫石などの史跡を通り過ぎ、先へ進むと、所々雨水の流れる溝があった。その溝はコンクリートではなく、木で作られていた。
街道には木造りの方がよく似合う。
この辺りまで来ると体も熱くなり、つとめて日陰よりを歩いた。
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熊注意の看板で早足になる(8)
山道を登り詰め、峠に出た。
案内板に『板堂峠』とあり、そこに「熊注意」の看板があった。
『そうか、ここは本州なのだ、熊がいる!』と思ったら急に怖くなり、早足で峠を過ぎた。
少し歩いた所に”国境の碑”があった。
山口市と萩市の境だ。
この辺りから下り坂となり少し楽になった。
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昔のお風呂(9)
ずっとのどかな風景が続いていたが、さらにのどかな山里の道を進んで行くと「日南瀬(ひなだせ)の石風呂」という史跡に出会った。
説明書きによると、江戸中期以前の風呂は、お湯を使わず、中で火を焚き、底の石を焼いて、海藻を敷き、服のまま休んでいたそうだ。
治安も人手も不安定な時代があり、その中でも風呂を楽しむいにしえの人達のたくましさが垣間見えた。
このすぐ横に、休憩所があった。
その裏に”首切れ地蔵”があった。
気味が悪いと思いながら案内板を読むと、旅人が頭だけの地蔵を沼から拾い上げ供養したものと書いてあった。
気味の悪さは消えなかった。
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街道沿いの小さな守り神(10)
歩いていると、道の傍らに、小さな鳥居と社があり、その前に説明書きがあった。
読むと、他の村からの邪気を取り除く神だと書かれていた。
「へー」と感心しながら『今は迷信だと笑い飛ばせても、当時は純粋に信じていたんだろうなぁ。でもこの先、未来の人から見たら現在の常識はどう写ることになっているのだろう・・』などと思いを馳せながら通り過ぎた。 |
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佐々並の掲示板(11)
ここは、当時、栄えていた宿場町、佐々並だ。面白い事に、家の玄関には、どの家も掲示板が下がっていて、昔の家業にまつわる小話しが書かれていた。
時間もなく少ししか読むことが出来なかったが、今度また来てみたいと思った。
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道の途中に柵が(12)
街道を歩いていると、何ヶ所か、このような柵が作られていた。
猪よけの柵だそうで、”通行可だが元通り柵を締めて下さい”と書かれた案内板が下がっていた。
前方の山から山口方面へ向かう若い女性が下りてきて、挨拶をし通り過ぎて行った。
女性の一人旅など当時はあり得なかっただろう・・などと、またいらぬことを思いながら先へと向かった。 |
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長い坂道、”一升谷”(13)
萩側の赤木市から3kmに渡る登り道を”一升谷”と言うらしい。
昔し炒り豆を食べながら歩くとちょうど一升の豆がなくなったころ峠に着くと言われたのが名前の由来らしい。
峠は標高346mで、石畳が38メートル程残っていた。
山口側からだと、下り坂になるので楽だった。
ここで、4人家族とすれ違った。 |
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真っ暗なトンネルの中で!(14)
国道が、上の方に見えて来たが、道は、国道下のトンネルへ向かって行った。
トンネルの前に立つと、外の明るさに対比して中は真っ暗だった。
この道しかないのかと見渡すが他にない。
仕方なくトンネルを通ることにする。
入った瞬間、真っ暗になり、しかもポトリと冷たいしずくが首筋に落ちて来た。
ゾッとして、戻ろうかと思ったが、振り返ると手を引っ張られそうで、そのまま立ち止まり考える。
足元も全く見えないので、冷静な判断をと自分に言い聞かせながら、意を決してデジカメのライトを点ける。
すると、足元は見えたが、一瞬ディスプレイに白い光がフワフワと写った。
『初めての超常現象か?』との思いが頭をよぎったが、『あり得ない、調べよう』という気になって、ドキドキしながら、もう一度、シャッターを切ってみる。
一瞬、フラッシュでトンネル内が見えたが、再び、白い物体が現われ、直ぐに真っ暗になった。
恐ろしさを噛みしめながら、もう一度と繰り返し、先へと進んだ。
暗くなると、またデジカメに白い物体が写る。道は長くこのまま外に出れないのではないかと思いながら、同じ動作を繰り返し、歩いた。
そして絶対に後ろは振り返るまいと思いながら、進んだ。
やがて、出口が近づき、デジカメを見ると、白い物体は、何の事はない、外の光りだった。
手がぶれて揺れていたのだった。そうとわかると、どっと疲れが出た。
長さは182mもあった。 |
梅林公園で5分間の休憩(15)
30km近く歩き、この頃は、足が棒のようになっていた。
通り道の梅林公園で休む事にした。
休憩は5分間だけだと心に決め、公園の草の上に倒れ込むように横になり、タオルを顔に乗せ目を閉じた。
気が張っていたのだろう、直ぐに目が覚めた・・がどのくらい経ったのかわからない。
幸い人は誰もいなく、行き倒れと思われることもなかったと思う。
起き上がると『体力は回復したのだ!』と自分に言い聞かせ歩き出した。
だが足が重い。
少し進むと、萩を出る時に最後にお城が見える”涙松”という場所に出た。
目的地の萩城跡は間近と思われる。 |
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徒歩距離、37km、やった!(16)
萩駅の観光案内へ寄り、今更だが、萩往還パンフレットをもらった。
外のベンチで、忘れ物の携帯電話を拾い観光案内の人へ渡す。
萩城跡へ着いたのは18時だった。
桜はまだ蕾だったがライトアップのおかげで綺麗だった。
時間が気になったが、せっかくなので、西の海岸まで行き夕日を見た。
城の入り口まで戻って来ると、どこから現われたのか、狸がじっとこちらを見ていた。
あわてて写真を取り出し、逃げないか心配だったが、取り終わるまで、待っていてくれた。
餌を貰いつけているのだろうか?時間もなく、狸に見送られながら、玉江駅へ向かった。 |
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最後に
九州で、当たり前に使っている”スゴカ”が、山口県に入ると使えず、現金で清算した。
帰りの玉江駅からの列車は、ワンマン列車だった。
ドアも自分でボタンを押して開けなければならない。
乗ると整理券を取るよう音声案内があつた。
取ったものの、駅はずっと無人駅だから好きな駅で下りてもわからないのではないかと心配していたら、下りれるのは、運転手のいる一番前の扉だけだった。
途中から、車掌が乗って来たので乗車券を買った。
後は、門司駅に着くまで一安心と思っていた所、吉見駅の手前で列車が鹿を撥ねて急停車した。そして安全点検の為10分遅れで出発し、家に着いたのは10時過ぎだった。
疲れはしたが、道中のいろんなことが頭の中にぎゅっと詰まって余韻が残り、歩くことに自信もついた。
次回予定の山口から防府までの歩きが、楽しみになって来た。
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